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第1回 「役に立つウィルス?」

医学部教授 白澤 浩

 「ウイルス」は肉眼では見えない生物(微生物)の中で最も小さく、細菌の1/10から1/100程度の大きさしかありません。ただし、他の生物のように細胞から成り立っているわけではなく、どちらかというと物質に近く、自己増殖能を持った物質とも言えるものです。ウイルスは様々な病気の原因になっています。「かぜ」の原因となるウイルスのように、ヒトの命を奪うことは希なウイルスもありますが、エイズ(AIDS) の原因となるヒト免疫不全ウイルス(HIV) のように、ヒトの命を奪うウイルスまで様々なウイルスが知られています。そして、残念ながら殆どの病原ウイルスに対する特効薬はありません。そんなヒトにとって厄介なウイルスが役に立つこともあるということが信じられますか。いえ、役に立つように私たち人間が手なずけたと言った方が正確かも知れません。

 病気には、生まれつきの病気(先天性疾患)と生まれてから後になる病気(後天性疾患)とがあります。先天性疾患の原因が遺伝子の異常であることは容易に想像がつくかと思います。最近の医学研究によって、後天性の病気、例えば「がん」も結局は遺伝子の異常による病気であることが解ってきました。糖尿病や高血圧などの成人病も、もとを正せば遺伝子の異常が原因となっているということが少しずつ解りつつあります。つまり、多くの病気の根本的な原因は遺伝子にあると言えるのです。従って、遺伝子が原因となっているこれらの病気を根本的に治療するには、遺伝子の異常を修正してあげれば良いことになります。これが「遺伝子治療」と言われるものです。

 遺伝子治療はまだ始まったばかりですが、病気の原因を根本的に修正するという点から、「究極の治療法」であると考えられています。遺伝子の本体はDNA ですが、今日ではDNAを試験管の中で殖やしたり、合成したりすることが可能で、シャーレの中で培養した私たち人間の細胞の中に外来の遺伝子を入れることも可能になっています。一方、特定の臓器だけに目的の遺伝子を都合良く入れてあげることには、かなりむずかしい問題もありますが、多くの研究者の努力により問題が一つ一つ解決され、徐々に理想的な「遺伝子治療」のための方法が改良されつつあります。今日、遺伝子を体の中に導入するために考えられているいくつかの方法の中で、最も有力視されているのが「ウイルス」を遺伝子の「運び屋(ベクター)」として使う方法なのです。

遺伝子治療に使われるウイルス内部構造が
わかりやすいように割面を入れてある。
左:レトロウイルス、右:アデノウイルス

どのウイルスでも、遺伝子治療に使うことができる可能性があるのですが、現在のところ最も多く使われているのは、レトロウイルスというウイルスです。ちょっと、意外に思えるかもしれませんが、あの恐ろしいエイズの原因ウイルスであるヒト免疫不全ウイルス(HIV) は、このレトロウイルスの仲間です。実際、HIV を遺伝子治療に使おうと考えている研究者もいるくらいです。レトロウイルスの特徴として、自分の遺伝子(ウイルス遺伝子)をヒトの染色体の中に挿入する能力を持っているということが挙げられます。この能力を利用すれば、目的の遺伝子を染色体の中に組み込ませて、長期間機能を果たさせることができるわけです。

 レトロウイルスに次いで期待されているのがアデノウイルスというウイルスで、いわゆる「かぜ」の原因ウイルスの一つです。夏季を中心に学童の間で流行する「プール熱」の原因ウイルスでもあります。

 ところで、こうして改造されたウイルスが、自然界で増殖するようではかなり危険ですから、これらの遺伝子治療用ウイルスは、自然界では増殖できないように改変されています。では、どのようにしてこれらのウイルスを殖やしているのでしょうか。それには、ちょっとしたトリックを使います。遺伝子治療用のウイルスでは、増殖に必須のウイルス遺伝子を除いておき、この除いたウイルス遺伝子を持つ「細胞」を別に用意しておきます。遺伝子治療用のウイルスは、このような細胞で必要な時だけ増殖させることができるようになります。

  このように、私達人間は、病気を起こすウイルス、特にヒトの命を奪ってしまうようなウイルスに頭を悩ませていますが、研究の進んだウイルスについては、その性質を良く理解できるようになって来たので、ウイルスの遺伝子を操作してヒトに無害なウイルスにするだけでなく、人間のしもべとしても使えるようになって来たのです。

(千葉大学発行『「知」の世界へようこそ』 第2集より)

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