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第15回 「環境と健康」

医学部教授 能川浩ニ

 私は北海道に生れました。教員だった父にしたがって、羊蹄山のふもとの開墾部落を転々と移り住みました。開墾地の冬は寒く、貧しく、雪に埋もれていました。生来、あまり丈夫でなかった母は、厳しい環境の中での無理がたたったのか、病気がちになりました。でも、近くに医者はいません。高校のある大きな町の医院から、母の薬をもらって帰るのが、私の仕事になりました。「医者になろう」と思いました。

  金沢大学の医学部に入学し、私は「環境と健康」の問題を考えるために、社会医学研究会というサークルに所属しました。部室にあった疫学の教科書をめくっていて、「リーヴェルとクラークの疾病の成立モデル」をみたとき、体内を電流が流れた様に思います。健康の成立と疾病の発現は、宿主-病因-環境の3つの要因の均衡の乱れ、均衡の強さによるつり合いで考えられると書いてあります。私が母をみていて漠然と感じていたことが、きちんと説明されていました。私は「環境と健康」の問題を追究するために、大学院へ進み、衛生学講座に席をおきました。


疾病の成立モデル

 当時、衛生学講座はイタイイタイ病に取り組んでいました。富山県神通川流域で多発した疾病です。患者の骨がもろくなって、咳やくしゃみをしても骨析が起こり、「痛い、痛い」とうめくので、地元の開業医の萩野博士によって、イタイイタイ病(以下イ病)と名付けられました。大正時代からみられたということですが、第二次世界大戦後に急増しました。種々の調査の結果、上流の神岡にあるM亜鉛鉱業所の廃宰置場から神通川に流入したカドミウム(以下Cd)という重金属が原因物質ではないかと考えられています。 厚生省が認定した昭和42年以降、疑わしい人も含めて四百人を越えた患者数も、現存するのは20人ほどです。イ病は過去の病気で、息者が死に絶えれば終りになるのでしょうか。私はそうは思いません。今までの研究の結果、Cdに汚染された地域に住む人々の尿中には、そうでない地域に住む人々にくらべて、低分子量蛋白が多く排泄されることが分かりました。


環境異常に対する反応

低分子量蛋白は腎臓障害が起きると尿中に多量に排泄される物質です。汚染地域住民の排泄量は、臨床的に病気と診断されるほどではありません。しかし確実に非汚染地域住民にくらべて多いのです。図を見て下さい。疾病として認識されるまでにはいくつかの段階があります。Cd汚染地域住民の尿の変化は、下から2か3番目の段階でしょう。しかし徐々に疾病に向って進行していきます。しかも、Cdの暴露を受けている人数は、病気になってしまった人よりもはるかに多いのです。この段階で、たとえばCd汚染米を食べないとか、汚染地域の水田の土を入れ替えるといった予防対策をたてられれば、あの悲惨なイ病はこの世には存在しなかったのです。現時点で臨床的に病気とはいえなくても、尿に特異的な現象が認められる人々を放置することは、正しくないと私は思っています。実際、最近の研究で、かつて尿中に低分子量蛋白が増加していた人々の方が、そうでない人々よりも早死にする危険性があることが分かってきました。また、日本は欧米諸国にくらべて、食物中Cd濃度が高いことも知られています。考え合わせると、イ病は過去の、富山県の限局された地域だけの問題ではないのです。現在も、国民的な健康問題として研究していかなければなりません。Cd汚染を例にとって説明したように、病気になってしまう前に、しかも出来るだけ早い段階で環境の異常に気付き、その危険性を科学的に証明して、人々の健康に貢献する学問が「衛生学」です。環境汚染は、現在では地球規模の問題に拡大し、人類の生存に対する21世紀における最大の問題となってきました。

  私が千葉大学に移って7年目になります。Cdを中心にした、重金属による環境汚染と人体影響の研究と、労働環境における健康保持と増進の2つが講座のメインテーマになっています。大学院生をはじめとして、若い研究仲間が増えました。自分たちの研究成果を、直接的に社会に還元できる幸せに感謝しながら、私は「環境と健康」に取り組んでいます。

(千葉大学発行『「知」の世界へどうぞ』 第1集より)

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